『生きることは頼ること 「自己責任」から「弱い責任」へ (講談社現代新書)』
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2024/8/23
目次
中動態(國分)
能動態と受動態の中間を意味する、自然に発生すること
責任は意志のあるところに存在するのではなく、責任を発生させるために意志という概念を仮定するという國分の主張を取り上げている
実際には、人間はすべての行動を能動的にはたしているわけではない
第5章 ケアの連帯
この世に死んでもよい人間などいないという前提
責任の主体に注目
責任の主体にすべての責任を押しつけ、それ以外の主体は免責される責任
この構造から、無責任と表裏一体になる
各々を孤立させ、人間どうしの対話を減らす→対話は思考である、思考停止を招く
ex. ナチスにおけるゲシュタポへの密告
強い責任を前提とした構造→司法
弱い責任
責任の対象に注目
愛ではない。利害関係を超えたところに存在する
他者の存在への気遣い
存在論的命令
傷付きやすい他者を保護する者を確保する責任
親が自分をケアするのは、親のエゴイズムではなく、子どもに対する責任の一部なのだ。
この例の場合だと、子どものためにほかの大人に頼ることも存在論的命令を守ることに含まれる
第一の責任であり、責任が存在するということに対する責任
個別的命令
傷付きやすい他者を保護する責任
第二の責任であり、第一の責任がないところには存在しない
二次的依存
ケアをする者 = 依存労働者が他者に頼らざるを得ないこと 社会保障はケアをする主体へのケアを相互に交わしあうために不可欠 存在論的命令を果たす手段である
弱い責任は連帯を必要とする
人間は相互に依存している
死んでもよい人間がいると考えることが差別
誰もが責任の主体であり、対象である
人間は力関係の非対称性がありながらも、結局は相互依存している
そこに線引きをし始めた瞬間、依存関係が支配-被支配の関係になってしまう
ケアする-されるの関係も同じ。
自分はケアされる対象だと思うことで、自分にも攻撃性があることに無自覚になってしまう